FAQ

どうして箱根駅伝は始まったのか?

箱根駅伝が誕生したのは、1920年(大正9)、今から90年も前のことである。
創設の原動力になったのは、マラソンの父として知られる金栗四三らの「世界に通用するランナーを育成したい」との思いだった。
金栗は、東京高師の学生時代に日本が初参加した1912年(明治45)のストックホルム五輪にマラソン代表として出場したが、途中棄権に終わり、失意のまま帰国した。

写真:第1回大会を制した東京高師

どうやったら出場できるのか?

関東学生陸上競技連盟に加盟している大学であれば、どこでも出場資格があります。 第91回大会で正月の本戦に出場できるのは21チームですが、前回の大会で10位までに入った大学は出場権を手にしていますので、残りを予選会で争うことになります。
2014年10月に行われた予選会では、20キロのコースを一斉に走り、各校上位10名の合計タイムにより、10チームを決定しました(残り1つは関東学生連合チームが参加)。
予選会では走り終わっても予選を通過したか否かは、結果発表の場で関東学生競技連盟の幹事長が通過校を読み上げるまでは知らされず、毎年数多くのドラマが生まれ、予選会にも数多くの箱根ファンが詰め掛けます。

写真:第80回箱根で初の予選会

なぜ「花の2区」というのか?

82回大会で小田原中継所の場所が変更になるまで、長年のあいだ箱根駅伝の最長距離区間であり、今も平地区間では最長であるというのが1つの理由です。
また、1区のスピードランナー達が僅差で鶴見の中継所に飛びこんでくるため、序盤の流れを引き寄せたい各校はエースを投入してくる事が多く、瀬古利彦(早大)、諏訪利成(東海大)、藤田敦史(駒沢大)など多くのランナー達がこの2区を走っているからです。
後半にアップダウンの厳しい2つの上り坂が各校のエース達を苦しめ、過去に「ごぼう抜き」や「ブレーキ」など数多くのドラマを生んでいます。

ごぼう抜きの記録は?

駅伝の醍醐味である「ごぼう抜き」。チーム力の接近と参加校増枠から、上位記録のほとんどが近年に達成されています。
また、上位記録のほとんどが2区で達成されているなかで、81区大会の今井正人(順大)が5区で11人抜きを記録しています。

ごぼう抜き 上位記録
順位 人数 名前 大学 大会・区間
1 20人 ダニエル 日本大 85回2区
2 15人 中川 拓郎 順天堂大 79回2区
ダニエル 日本大 84回2区
4 13人 伊達 秀晃 東海大 84回2区
佐藤 悠基 東海大 85回3区
6 12人 服部 誠 東京農業大 50回2区
尾田 賢典 関東学院大 79回2区
モカンバ 山梨学院大 81回2区
モグス 山梨学院大 82回2区
10 11人 今井 正人 順天堂大 81回5区
保科 光作 日本体育大 82回2区
12 10人 福井 誠 日本大 82回3区

10人のメンバーはいつ決まるのか?

出場する各大学は、12月29日に1区から10区までの10名と補欠枠6名の区間エントリーを行うことになっています。
補欠枠は本来、大会直前に怪我をしたり、体調を崩す選手が出た場合に備えたものですが、チ−ムによっては戦略的に使う場合があります。
なぜなら、補欠枠の選手はレース開始1時間前の最終エントリーでどの区間にでも入ることができるからです。
逆に一度1区から10区の間にエントリーされた選手は、他の区間に再エントリーすることはできません。
そのため、各校の監督はぎりぎりまで頭を悩まし、選手の体調を見ながら、最終オーダーを決めるのです。

裏方の仕事は?

さまざまな「裏方」が箱根駅伝にはいます。
まず、参加する各校では、12月初旬箱根駅伝チームエントリーで漏れた部員達の多くが「付き添い」などのスタッフに回ります。
付き添いの仕事は荷物番のような仕事から、メンバーのマッサージ、体調の把握など多岐に渡り、箱根駅伝のテレビでは、中継所で倒れこむ選手を介抱する彼らの姿が、よく映し出されます。
また、大会全体を支える「裏方」の存在も忘れてはなりません。
箱根駅伝は大会スタート当初から、学生が中心になって運営してきました。主催者である関東学生陸上競技連盟は、登録された各大学から常任幹事を選出。
本来、選手として活動したくて陸上部に入ってきた彼らですが、連盟のために年間の学連陸上競技会などを運営しながら、最大のイベントである箱根駅伝を運営します。
その他、予選を通過できなかった大学からも正月には、補助員として多数参加しており、多くの「裏方」が80年を超える歴史を支えているのです。

山登りと山下りはどんな感じ?

82回大会から中継所が小田原方向に2.5km移動したことにより、5区の高低差は更に大きくなり、約864mになりました。
しかも23.2kmという最長区間で、最もタフな区間といえます。
逆に6区は、この高低差を一気に下るわけですから、 選手は平均して100mを16秒前半、時には13秒台までスピードアップして走る事もあり、経験者に言わせると「落ちていくような」感覚で、太ももはレース後1週間使い物にならなくなるそうです。

写真:順天堂大学6区の長谷川清勝

「駅伝」の名称の由来は?

奈良時代に中央と地方を結ぶ幹線道路に整備された「駅制」がルーツです。
1917年に日本で最初の駅伝「東京奠都五十年奉祝東海道五十三次駅伝競走」を読売新聞社が主催した時に、神宮皇學館の武田千代三郎館長が命名しました。
駅制にもとづいて幹線道を往来する役人のために用意された「駅馬」と「伝馬」からヒントを得たと言われています。

過去に中断は?

第2次世界大戦のため、1941、1942、1944、1945、1946年は開催していません。
1941年は、日本、ドイツ、イタリアとの間で三国同盟が成立した直後で、東海道と箱根道は軍需物資の輸送に使われ、道路使用の許可が下りませんでした。
戦火の拡大とともに学生スポーツを楽しむ余裕もありませんでした。

五輪出場は何人?

1920年のアントワープ五輪から、2012年のロンドン五輪まで、17大学から69人(延べ84人)が五輪代表になりました。
アントワープ大会は、箱根駅伝が始まった年で、東京高等師範(現筑波大)の茂木善作選手ら4人がマラソンに出場しています。
異色は早大の草創期に活躍した麻生武治選手で、1928年のサンモリッツ冬季五輪にスキーのジャンプ、複合、クロスカントリーの代表選手として出場しました。

テレビ中継はいつから?

テレビの生中継放送は、長い間、箱根山中の電波障害のため実現は困難でした。
日本テレビは山中に無線基地を設置して電波を飛ばすことで克服し、1987年から生中継が実現しました。
以来、20%を越す高い視聴率をマーク。平均視聴率の過去最高は2003年の79回大会の31.5%。順天堂大が完全優勝した83回は往路が27.3%、復路が28.5%でした。

最近、雪が降ったことは?

2003年の79回大会の復路で小雪がぱらつきましたが、1985年の第61回大会の復路以来、積雪はありません。
1937年に復路が大雪に見まわれ、1978年には豪雪で箱根町に25センチも積もりました。
地球温暖化の影響のためか、最近は雪とは無縁で、暖冬による気温上昇が懸念されています。

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