駅伝ひろばをご覧の皆さま、はじめまして。関東学生陸上競技連盟で幹事を務めております中央大学文学部人文社会学科の松原月歌(まつばらつきか)と申します。大学では国文学を専攻しており、「古事記」をはじめとする上代文学から、白樺派、新思潮派といった近現代文学に至るまで、数多くの文学作品に触れ合っています。何千年という月日を経てもなお、日本人の心を魅了し続ける傑作には、現在の人々と過去の人々が共感できる『不変の魅力』があることを日々感じております。
さて、ここからは私が学連幹事になるまでのお話を書きたいと思います。小学2年生の時から陸上競技をはじめ、中学1年生の時には夢の舞台であった全国大会に出場することができました。部活の仲間や大会で知り合ったライバル達と切磋琢磨し、練習に励んだ日々は今でも忘れられない大切な思い出となりました。しかし、怪我で思うように走れない日々が続くようになり、結局、中学校卒業と同時に陸上競技から離れ、高校では硬式テニスという全く別のスポーツに挑戦しました。そんな私が再び陸上競技に関わる決意をしたのは、高校3年生の時にテレビで箱根駅伝の予選会を見た時です。本選出場の10枠をかけ『命を削っても構わない。』そう言わんばかりに雨の中を駆け抜ける選手の姿は、私の中に眠っていた「やっぱり陸上競技をやりたい」という思いを燎原の火の如く燃え上がらせるのに十分すぎるほど、琴線に触れるものでした。そこから関東の大学に進学することを決め、今度は選手としてではなく、大会を運営する立場で陸上競技に関わらせていただいております。
これまで日本インカレをはじめ、数々の大会を運営していく中で、勉強との両立に悩んだ時期やはじめての業務に戸惑う日々もありました。そして今でも「自分の選択は正しかったか。もっと別の道はなかったのか」そう考えてしまう時があります。それでもひとつ確かなことは、選手として走っていたころ、そしてテレビを見たあの日と変わらず、陸上競技に魅了され続けている自分がいるということです。
ところで皆さんは駅伝大会の始まりについてご存知でしょうか?日本で初めて駅伝大会が行われたのは1917年(大正6年)で、その3年後、1920年(大正9年)に初めての第1回箱根駅伝が「四大専門学校対抗駅伝競走」という名で開催されました。そこから約100年間、社会情勢や「三種の神器」は大きく変化する中で、「何人かの選手が交代で長距離を走り切る」という根本的な形は変化することなく歴史を紡いできました。
風化することなく長く人々に愛されるものには、過去の人々、そして現代を生きる我々のどちらもが共感できる『不変の魅力』があると私は思います。文学作品と同様、数々の『不変の魅力』を持ち合わせる箱根駅伝はこれから先も何十年、何百年と受け継がれ、まだ見ぬ未来の人々の心を魅了し続けていくこととなるでしょう。
最後になりましたが、このような未曾有の災禍の中で大会が開催できますのは、大会関係者をはじめ地域の皆様や箱根駅伝を心待ちにしてくださっているファンの方々のご理解、ご協力があるからです。そんな皆様への感謝、そして選手の皆さんへの期待を胸に、当日は鶴見中継所を担当する予定です。歴史が途切れぬよう責務を全うし「第98回東京箱根間往復大学駅伝競走」を完遂させたいと思います。拙文ではありましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。